2014年1月23日木曜日

三井記念美術館蔵・円山応挙筆「雪松図屏風」



銀座での用事を済ませたあと、少し時間ができたので、

銀座線に乗り「三越前」で降り、「三井記念美術館」へと急いだ。

着いたのは、夕方4時過ぎ。

5時閉館であるので30分ちょっとしか見られないが

それでもよかった。

国宝「雪松図屏風」の展示が明後日まで、と迫っていたため、

一目でも会いたい、という思いだった。








三井記念美術館には、江戸時代以来300年におよぶ三井家の歴史の中で収集され、

今日まで伝えられてきた日本・東洋の貴重な文化遺産が収められている。

平成17年(2005年)10月に日本橋にオープン。

それ以前、中野区上高田5丁目の「三井文庫別館」として展示をしていた頃には、

行きたくてもなかなか行けなかった。

その悔しい思いがあるからかもしれない。

便利になった今、足を運ぶ回数が多い。




国宝6点、重要文化財71点を含む、約4000点の美術品が、展示収蔵されている。

重厚な展示空間の中に納まってる美術品はどれも素晴らしく、

特に、茶道具は逸品ぞろいである。

その上、どの品も保存の状態がとてもよい。


「雪松図屏風」も、

パトロンだった三井家のために応挙が描いたものであり、

以来、三井家を離れずにあるのだから

とても保存状態がよい。

そのおかげで、細部まで応挙の技のすごさを見ることができる。

この作品は、屏風の下地の白をそのまま残し、

あとは墨で松の葉と枝、幹を描き、金泥・砂子を背景に刷いている。

そんなシンプルな描きかたにも関わらず、

ずっしりとした雪とその重みにしなう枝のたおやかさが迫ってくる。

構図や全体の表現の美しさも秀逸だが、

近寄って見る時の驚き!

これがもし、下地の白が黄ばんだり、薄汚れていたら、

感動はここまでにはならないかもしれない。

たくさんの応挙の作品と向かい合ってきたが、

本物の応挙がここにいる、という気持ちになる。

なぜなのか。

これからもう少し、応挙と付き合って、

探ってみたいと思っている。

































美術館が入っている「三井本館」は、昭和初期を代表する建造物であり、

館内のゆったりとした造りにも満足しながら、ひとときを過ごすことができる。



















美術館入り口は、地下鉄を降りて階段を上ればすぐ。ありがたい。

この便利さ、見終わった後の充実感。

次回の展覧会は「三井家のおひなさま」(2/7-4/6)。

また足を運ぶつもりである。








新橋演舞場・新春花形歌舞伎「壽三升景清」を観る


 
今日は『通し狂言 壽三升景清』(1/2-1/26)の昼の部を

市川新蔵ファンの4人が揃って観劇。

と言っても、私のほかの3人は初めての顔合わせ。

茶道関係の年上の友人、学生時代の同級生、元職場の若い同僚、と

とり合わせがバラエティに富んでいる。

「木挽町 辨松」に立ち寄り、お赤飯のお弁当を4つ調達。

4人同じお弁当にして、ゆっくりと場内の席で食べたいと思ったから。



新橋演舞場へと急ぐ。

新春の、華やかな舞台を想像するとわくわくし、

着物を着ていてもゆっくりと歩くことができず、自然に小走りになる。








































10時半の開場前に着いてしまったのでしばらく周辺散歩。
























ロビーには、お正月らしいしつらいが。

中に入れば、海老蔵襲名の折に亡き團十郎丈が描かれたという

海老の絵をあしらった幕も。

ファン(贔屓)を大事にする、成田屋らしい心遣いである。






















































『壽三升景清』は、歌舞伎十八番の『景清』『関羽』『解脱』『鎌髭』を、

通し狂言として構成した作品。

「壽」と冠を付けただけあり、その華やかさ、おおらかさは、期待通り。

海老蔵、獅童、芝雀…それぞれの味を出している。

また、目を見張ったのは、福太郎ちゃんの成長ぶり。

相変わらずの愛らしい姿・声ではあるが、子役からはすでに脱皮した演技。

引き付けられるものがあった。

これからの成長が楽しみである。

我らが新蔵さん、成田屋の中では「十二代團十郎の一番弟子」。

今回は、厳めしい中国の武将になったかと思えば、

道化役まで、幅広く演じており、本当におつかれさま。

「荒事」らしい演技に加え、津軽三味線の力強い音も耳に残り、

劇場を出てからも高揚した気分は続いていた。

























その日の夜、銀座2丁目の蕎麦店「流石本店」へ。



















翌日の舞台にさしつかえない程度に、

新蔵さんにもお付き合いいただき、「新年会」の場に。

昼間のメンバーは少し入れ替わり、あと3人が合流して、

6人の会となる。










































お酒もおつまみも美味しく、器も楽しみながらの席となった。




 
 
 
 









































シメはやはりお蕎麦で。

細めの蕎麦とダシのよく効いたつゆは絶品。 






















昼の部に続いて、特別編・夜の部も楽しく過ぎた。

成田屋は、團十郎丈を失ってちょうど1年。

今回の舞台の構想は、海老蔵が数年前から温めていたものだという。

晴れて上演できて、ご本人が一番ほっとされているにちがいないが、

木挽町のあちらこちらから、贔屓の方々の安堵の思いが、

ほわっと立ち上ってくるような、そんな夜だった。





2014年1月20日月曜日

初めての「新春浅草歌舞伎」




























昨年、根岸の西蔵院でお茶席を持たせていただいて以来、

下町方面に親しみを感じて、足が向くことが多くなった。

とくに浅草は詳しくなればなるほど奥深く、

親しみやすい気取らない顔を見せてくれる。

「新春浅草歌舞伎」も観なくては。

そんな気持ちでいた。

昨年11月にインターネットで、 

午後3時半からの第2部のチケットを押さえてから、

今日の日を楽しみにしてきた。


銀座線浅草駅で降り、

雷門から仲見世を通り、浅草公会堂へと急ぐ。

迎えてくれる新春の飾りつけに、だんだん気分も盛り上がる。






































































市川猿之助演じる「博奕十王」は、創作舞踊で、

閻魔大王や鬼たちと博奕うちの滑稽味あるやり取りが

新春らしいなごやかさを演出してくれる。

猿之助の身の軽やかさが心地よくて、いつまでも見ていたい気がした。























 

「恋飛脚大和往来 新口村」では、

片岡愛之助の「忠兵衛」と中村壱太郎の「梅川」の

雪の中の道行がひたすら美しく、哀しかった。























歌舞伎舞踊の「屋敷娘」「石橋」。

とくに「石橋」は先日能舞台で見たところなので、

比較しながら見ることができ、楽しかった。























浅草寺境内を眺められる休憩室には、お茶の自動販売機もあり、

とても庶民的な空気が流れている。


























浅草歌舞伎の印象は、「親しみやすさ」の一言に尽きる。



























外へ出てもお店が多く楽しい気分が続く。














お土産には、「亀十」に立ち寄り「松風」を買い求めた。

次回もまた、ふらりと来てみたい、浅草歌舞伎である。







2014年1月12日日曜日

銀座菊廼舎の花びら餅


銀座7丁目で友人のコンサートを聴いた帰り道、

4丁目から地下鉄銀座線に乗ろうとして、

ふと、母に銀座らしいお土産を買って帰りたいと思いつき、

コアビル地下1階の「銀座菊廼舎」に立ち寄る。





















「花びら餅」は、お正月の和菓子。

茶道の初釜の席では必ず使われる。

正式には「菱葩餅(ひしはなびらもち)」と言うらしい。

牛蒡と白味噌とピンク色のを、餅もしくは求肥で包んだ形のもの。



平安時代の宮中でおこなわれた新年行事「歯固めの儀式」では

長寿を願い、餅の上に赤い菱餅を敷き、

その上に猪肉大根の塩漬け、などをのせて食べていた。

それがだんだん簡略化され、

餅の中に食品を包んだもの(宮中雑煮とよばれた)を

公家に配るようになった。

それが進化し、鮎は牛蒡に、雑煮は餅と味噌餡になったと言われる。

明治時代に、裏千家家元十一世玄々斎が初釜で使用。

以来、新年のお菓子として使われるようになり、

全国の和菓子屋でも作られるようになった、とのことである。



和菓子屋ごとにそれぞれの花びら餅を販売しているから、

見比べ食べ比べるのも楽しいが、

どちらかと言えば、餅も牛蒡も歯ごたえがあるものが好みである。

菊廼舎のそれはまさにそのタイプ。

とても満足した。
































一緒に買い求めた「柚子まんじゅう」は、

香り豊かで形も美しい。

















「栗きんつば」も見逃せなかった。

栗がぎっしり入っていて、満足感あり。





















「銀座菊廼舎」は、明治23年創業時は歌舞伎座近くにあり、

歌舞伎煎餅を売り出し大評判だったそうである。

ずっと銀座で育ってきた歴史ある店。

昭和46年からは、地下店舗になってしまったけれど、

店のたたずまいや菓子の形に、

練り上げられた伝統の技と誇りを感じずにはいられない。

銀座には、銀座ならではの伝統の形、味、サービスを守る店が多い。

そういう店の一つひとつが銀座の街の空気をつくりあげている。



ほんのひとときの買い物時間であったが、

豊かな気持ちになって、地下鉄に乗り込むことができた。





2014年1月11日土曜日

代官山、ジャズピアノのある空間、トークも満喫


代官山のLezard(レザール)での「ジャズ・ライブ&トーク」の会場へ。



佐藤允彦(さとう・ まさひこ)さんと福田重男(ふくだ・しげお)さんという

日本を代表するジャズピアニスト二人の共演というだけでも期待が高まるが、

そこにジャズジャーナリストの小川隆夫(おがわ・たかお)さんが絡む、

「ジャズ大喜利」という趣向。

さて、どんなライブ&トークが楽しめるのか。















小川さんが次々とお題(テーマ)を出す。


〇4拍子のブルースを5拍子で弾く。

〇それぞれのオリジナル曲を交換して弾く。

〇一台のピアノの前に立ち、連弾(低音、高音を時々入れ換わる)。

〇デビューアルバムからの一曲を選んで弾く。

〇Lezardのために今回作った曲を弾く。

〇etc.

二人が交互に弾き、プレイを競い合う、まさに、ジャズ版大喜利と言えよう。

演奏者にはちょっと過酷と思える方法かもしれないが、

大物二人の競い合いは、見ごたえ聴きごたえがあった。

小川さんのシカケは成功して、

それぞれの演奏家の個性が徐々に際立ってくる。

企画の妙味は、演奏上にとどまらず、
 
演奏と演奏の間の3人の軽妙洒脱な会話のやりとりにも感じられた。

ジャズの魅力に満ちた空間にいつの間にか溶け込み、

あっという間に2時間半が過ぎた。



今回のライブ&トークは「小川隆夫ONGAKUゼミナール」の一環。

次回はどのようなシカケを見せていただけるのだろうか。

今から楽しみである。











































2014年1月5日日曜日

台東区竜泉にある「一葉記念館」を訪ねる


地下鉄日比谷線三ノ輪駅で降り、地上へ出て、
国際通りを浅草方面へ進み、左に折れる。



































「樋口一葉記念館」は、徒歩10分くらいの場所にあった。

高校生の頃に一度来て、また来ようと思いながら、
数えれば40年が過ぎてしまった…。






この地に、記念館ができたのは昭和36年だが、
一葉が五千円札の肖像に採用されたのを機に改築することになり、
平成18年には新記念館が完成した、とパンフレットにある。
確かに40年前は本当に小さな資料館だった気がする。

建物に向かい合うようにして、一葉記念公園があり、石碑が立っている。


 
「たけくらべ記念碑」である。
一葉の小説「たけくらべ」は、一葉が母親と妹の三人で
下谷竜泉寺町に住み、荒物・駄菓子店を営みながら生活した、
その経験を素材にして書かれた。
そのことを記念し、昭和26年に建てられた、とある。


入館料300円を払い、館内に入る。
展示室は2階と3階。地下には研修室もあり、
「朗読会」などのイベントをおこなっている。


建物内、とくに展示室へと続く階段は明るい。
























樋口一葉(本名・奈津)、明治5(1872)に、
甲斐国出身の両親のもと、千代田区で生まれる。

小学校を首席で卒業するなど利発な少女であったが、
進学することは許されず、歌塾「萩の舎」へ入門。

一葉は生涯に4000首もの江戸派の短歌を遺している。
また、その書かれた文字の美しいことに驚いた。
























(写真は、絵葉書)

長兄、父の死によって、家計を背負うことになり、
生活苦との闘いが始まる。

女性が小説家として原稿料を得るのは、
極めて困難な時代であったが、
どんな困難のなかでもあきらめず、こころざしを貫く。

ついに、小説のみで生計を立てることを決心して、
本郷丸山福山町へ引っ越した一葉は、
明治27年に「大つごもり」を発表。

その後、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの代表作が
次々に発表された。
この明治29年1月までの14ヶ月は、のちに「奇跡の14ヶ月」といわれた。

明治29年11月23日、持病の肺結核が進行し、
24歳の一葉は生涯をとじた。

人生はまだこれからという時、無念だったにちがいない。



すぐ近くの住居跡にも行ってみた。
この地に住んで荒物・駄菓子店を始めたことは、
一葉文学に大きな影響を与えたのであろう。











































(写真は絵葉書、長谷川清画「一葉女史宅」)


「社会のどん底に生きる人間の姿に接し、
また店に来る子供達を鋭く観察し、
人間洞察、社会認識を深めたその体験が
作家・樋口一葉を大きく飛躍させたのである」

とパンフレットに書かれていたが、
女性であること、貧困、病苦に負けず、
常に凛として、突き進んでいった一葉。

すばらしい人物である。

しかし、下町にある文学資料館は、
それだけではない、一人の女性としての
温かさや優しさを伝えてくれていたように思う。



2014年1月1日水曜日

平成26年正月、お屠蘇とお雑煮、「変わらないもの」



大晦日に湯通しし、やわらかい布で拭き上げて用意する。

おせち作りの湯気とにおいと、祖母と母のエプロン姿とともに、

その朱塗りの屠蘇器は私の記憶の中に焼き付いている。

生まれてからずっとお正月がくれば目にしていた器。

実は父が亡くなったあと迎えた2回のお正月では

使わなかったのだが、

今年は出してきて、じっくりと眺めた。

心の中に少しゆとりが生まれたということかもしれない。





































明治27年生まれの祖母は、

自分が嫁いだ福岡・久留米の旧家のやり方をくずさず、

東京の小さな家の中でも細かい点まで母や私に指示を出した。

核家族の友達の家は明るく、

自由な空気に満ちているように思えてうらやましく、

かび臭い湿ったような自分の家の中がずっと好きになれなかった。

その空気を振り払うかのように、

私は新しいことを求めて外に出て、

祖母や母に教えられてきたやり方ではない、

自分なりのやり方というものを探してきたように思う。

私の自分の家は絶対に「風通しのよい家」にする、と決めていた。



しかし、3年前父が急に逝ってしまった。

祖母はもういない。

祖母とともにいつも家の中の季節行事を過ごしてきた母は

記憶を失っている。

そしてそのとき気づいた。

私にとって古くて重たかった、あの家の文化は、

父という存在をなくした瞬間に、あっという間に

消えてなくなってしまったということに。



葬儀は、お盆は、お彼岸は、お正月は、

どのようにしていたのか、母には答えられない。

私の手さぐりの日々が始まった。



屠蘇器だけがあってもしかたない、と思っていたけれど、

これがあってよかった、と今は思う。

祖母や母がどんな日本酒を屠蘇器に注いでいたのかは知らない。

私は私でお酒を選ぶことにする。

母を今も見守ってくれている、この土地のお酒を。
















お雑煮だけはかろうじて教わっていた。

アレンジすることなど考えず、そのままシンプルにつくる。






















古いもの、押し付けられるもの、変わりばえのしないものを退けてきたが、

今は、ほんの少しでも「変わらないもの」があったことに、

ほっとしている。

そして、それらに日々背中を押してもらっている。